平和・歴史

十・十空襲 ─ 9時間の爆撃が奪った、沖縄の街と日常

編集:365おきなわ編集部
十・十空襲 ─ 9時間の爆撃が奪った、沖縄の街と日常
十・十空襲を題材にしたイメージイラスト(当時の記録写真ではありません)

十・十空襲とは、1944年10月10日に米軍が那覇など南西諸島を襲った大規模な空襲です。 沖縄戦と聞くと、1945年の地上戦を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、その約半年前、那覇の街は大規模な空襲によって焼け野原になっていました。日付に由来するその名前には、一日のうちに奪われた多くの命と暮らしの記憶が刻まれています。

この記事の要点

  • 1944年10月10日、午前6時40分から約9時間、五次にわたる波状攻撃が行われた
  • 当時の那覇市の約9割が焼失。犠牲者数は資料によって異なる(225人/255人)
  • 空襲と並行して撮られた空中写真は、翌年の上陸作戦の地図作りに使われた
  • 若狭・旭ヶ丘公園の「なぐやけの碑」前で、毎年10月に追悼式が行われる

午前6時40分から、約9時間の空襲

この日、米軍の空母から飛び立った艦載機が、沖縄を含む南西諸島を攻撃しました。沖縄県公文書館の解説と攻撃時間表によると、空襲は午前6時40分の第一次攻撃から、第五次攻撃が終わる午後3時45分まで、約9時間にわたって繰り返されました。

出動した米軍艦載機は、のべ1,396機。「のべ」は、同じ機体による複数回の出動も数えた数字です。飛行場や船舶、軍施設が攻撃され、那覇では民間の居住地域にも焼夷弾が投下されました。焼夷弾は火災を起こすための爆弾で、街に広がった炎が被害を大きくしました。

五次にわたる波状攻撃、その内訳

公文書館の資料案内にある攻撃時間表を見ると、五つの波は時間とともに標的を変えていったことが分かります。第一次(午前6時40分〜8時20分)は主として飛行場、第二次(午前9時20分〜10時15分)は船舶と飛行場に加え、那覇、渡久地、名護、運天港、与那原、泡瀬など各地の港湾、第三次(午前11時45分〜12時30分)は港湾施設が中心でした。これに対し、第四次(午後12時40分〜1時40分)と第五次(午後2時45分〜3時45分)の標的は、いずれも「那覇市」と記されています。午前中は軍事施設や港を中心にしながら、昼以降、市街そのものへ攻撃が移っていったのです。

攻撃に加わった米軍の高速機動部隊は、空母7隻、護衛空母8隻、高速戦艦5隻、重巡洋艦7隻、対空巡洋艦3隻、駆逐艦58隻で構成され、その日のうちにのべ約1,400回の出撃を行ったとされます。公文書館が紹介する米軍側の作戦命令には、フィリピンのレイテ島への上陸を支援するため、沖縄や台湾などを空襲するよう命じたことが記されています。

当時の那覇の約9割が焼失

港町として栄え、政治・経済・文化の中心だった那覇は、この空襲で壊滅的な被害を受けました。那覇市歴史博物館は、当時の那覇市の約9割が焼失したと説明しています。

犠牲者数には資料による違いがあります。那覇市の消防年報では死者225人、負傷者358人。一方、沖縄県公文書館の資料案内は、那覇市の民間人の死者を255人、負傷者を358人としています。数字を読むときには、どの資料に基づく記録かを確かめることが大切です。

被害は那覇だけにとどまりません。同じ資料案内は、沖縄県全体で少なくとも600人が死亡し、900人が負傷したとまとめています。その内訳として挙げられた記録では、軍人の死者218人・負傷者333人、軍夫の死者120人・負傷者70人、民間人の死者330人・負傷者455人とされ、那覇市の民間人の死傷者は、全体の半数近くを占めていました。

空襲とともに撮影された、街の姿

十・十空襲には、米軍による情報収集という側面もありました。攻撃と並行して、艦載機から地形や街の様子を撮影していたのです。沖縄県公文書館によると、これらの空中写真は、翌年の沖縄上陸作戦「アイスバーグ作戦」の計画に必要な作戦地図の作成に使われました。

現在、公文書館に残る写真や映像は、空襲が街に何をもたらしたのかを知る手がかりになっています。作戦のために撮られた記録が、いまは被害をたどり、歴史を学ぶ資料にもなっているのです。

沖縄戦の前夜を、今に伝える

十・十空襲の約半年後、1945年3月末から沖縄では激しい艦砲射撃や空爆、地上戦が始まりました。空襲で受けた被害の先に、さらに大きな戦禍が待っていたのです。

十・十空襲は、沖縄戦を理解するうえで欠かせない出来事です。10月10日という日付を覚えることから、かつてこの街にあった暮らしと、失われた命に思いを向けてみませんか。

なぐやけの碑と、毎年の追悼式

那覇市若狭の旭ヶ丘公園には、恒久平和のモニュメント「なぐやけの碑」があります。那覇市の要覧によると、碑は1996年に若狭海浜公園内に建立され、市出身の戦没者2万9千余柱の名簿が奉納されています。「なぐやけ」は、穏やか、和やかといった意味を持つ沖縄の古語で、平和への祈りを込めた名とされています。

この碑の前では、那覇市主催の戦没者追悼式(なぐやけの碑慰霊祭)が毎年10月に開かれています。十・十空襲から82年となった2026年も、10月3日に追悼式が営まれ、十・十空襲や沖縄戦で命を奪われた那覇市出身者3万人あまりが追悼されました。体験を語ることのできる人が少なくなるなかで、式典は記憶を受け継ぐ場の一つになっています。

参考資料・出典

沖縄県公文書館「1944年10月10日 10・10空襲」:攻撃時間、出動機数、攻撃対象、空中写真の利用。

那覇市歴史博物館「10・10空襲」:当時の那覇市の焼失被害。

那覇市「消防年報2025年(令和7年版)」:那覇市の死者・負傷者数。

沖縄県公文書館「パスファインダー No.23 10・10空襲」:攻撃の時間帯、民間人の被害記録。

沖縄県公文書館「空中写真にみる沖縄のかたち」:空襲から沖縄戦へ至る経過。

那覇市「那覇市要覧2012」:なぐやけの碑の建立年と、奉納された市出身戦没者の名簿。

琉球朝日放送「10・10空襲から82年 那覇市で戦没者追悼式」:2026年10月3日に旭ヶ丘公園のなぐやけの碑で行われた追悼式。

よくある質問

Q. 十・十空襲とは何ですか?
1944年10月10日、米軍の空母から飛び立った艦載機が沖縄を含む南西諸島を攻撃した空襲です。名前は日付に由来します。沖縄県公文書館の解説と攻撃時間表によると、空襲は午前6時40分の第一次攻撃から、第五次攻撃が終わる午後3時45分まで、約9時間にわたって繰り返され、出動した艦載機はのべ1,396機でした。
Q. 那覇の被害はどのくらいでしたか?
那覇市歴史博物館は、当時の那覇市の約9割が焼失したと説明しています。犠牲者数には資料による違いがあり、那覇市の消防年報では死者225人・負傷者358人、沖縄県公文書館の資料案内は那覇市の民間人の死者を255人・負傷者を358人としています。同じ資料案内は、沖縄県全体で少なくとも600人が死亡し、900人が負傷したとまとめています。
Q. なぜ沖縄が空襲を受けたのですか?
沖縄県公文書館が紹介する米軍側の作戦命令には、フィリピンのレイテ島への上陸を支援するため、沖縄や台湾などを空襲するよう命じたことが記されています。攻撃と並行して艦載機から地形や街の様子が撮影され、それらの空中写真は翌年の沖縄上陸作戦「アイスバーグ作戦」の計画に必要な作戦地図の作成に使われました。
Q. 十・十空襲の追悼は今も行われていますか?
那覇市若狭の旭ヶ丘公園には、恒久平和のモニュメント「なぐやけの碑」があり、碑の前では那覇市主催の戦没者追悼式(なぐやけの碑慰霊祭)が毎年10月に開かれています。十・十空襲から82年となった2026年も、10月3日に追悼式が営まれ、十・十空襲や沖縄戦で命を奪われた那覇市出身者3万人あまりが追悼されました。