ひめゆりの塔とは?沖縄の戦火に消えた少女たちの記録を訪ねる

沖縄本島の南部、糸満市伊原の静かな丘の上に、白い慰霊碑が静かに立っています。「ひめゆりの塔」です。沖縄戦で地上戦が繰り広げられたこの島で、まだ十代の少女たちが看護要員として戦場に動員され、その多くが命を落としました。戦火の中で何が起きたのか、そして今私たちは何を受け取るべきなのか。「塔」と「資料館」を二本柱に、沖縄戦の記憶をひもといてみます。
看護要員として戦地に送られた少女たち――ひめゆり学徒隊の悲劇
「ひめゆり学徒隊」とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒・教師らが、看護要員として沖縄陸軍病院に動員された部隊の通称です。両校の女子生徒222人と引率教師18人、あわせて240人が組織され、南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院で負傷兵の看護にあたりました。
動員が始まったのは1945年3月23日。壕(ガマ)の中は血と土と熱気に満ちた極限の環境で、平均年齢15〜16歳の少女たちは、わずかな医療器具を頼りに昼夜を問わず働きました。戦況が悪化すると病院は南部へ撤退し、第三外科壕も糸満の伊原へ移動します。
1945年6月18日、沖縄防衛の第三十二軍から学徒隊に解散命令が出されました。校長から「必ず生き延びて、将来の若者たちの指導のために頑張りなさい」と告げられ、少女たちは極限の状態で壕を後にします。しかし翌19日早朝、伊原の第三外科壕は米軍の攻撃を受け、壕にいた96人のうち87人が命を落としました。ひめゆり学徒隊で亡くなったのは136人。その多くが解散命令後の数日間に犠牲となり、この命令はのちに「死の解散命令」と語られるようになりました。
戦後、犠牲になった209人の名を刻んだ慰霊碑が、彼女たちの最期の地である伊原第三外科壕の上に建立されました。最初の塔は1946年4月5日に建てられ、現在の塔は1957年に再建されたものです。
沖縄戦の記憶に向き合う――ひめゆり平和祈念資料館
慰霊碑と並んで忘れてはならないのが、塔の隣に建つ「ひめゆり平和祈念資料館」です。ひめゆり同窓会によって1989年に設立された平和ミュージアムで、戦争を知らない世代にも当時の体験を伝え続けています。展示は2021年4月12日に17年ぶり2回目のリニューアルオープンを行い、実物資料や証言映像、「絵で見る証言」と称する展示を通して、少女たちが極限状態に追い込まれていった過程を伝えています。
館内では、手紙や日誌、制服、医療器具、壕での看護を描いた絵や写真など、具体的な「モノ」が当時の空気を伝えます。なかでも、少女たち自身が描いた壕の風景や家族への思い、栄養失調に苦しむ姿の絵は、言葉にしがたい状況を記録した証言として胸に迫ります。
資料館は糸満市字伊原671-1のひめゆりの塔敷地内にあり、開館時間は午前9時から午後5時25分(入館は午後5時まで)、年中無休です。訪れる際は、ここが観光地であると同時に、沖縄戦で家族や地域の人々を失った方々にとって今なお大切な慰霊の場所であることを心に留めたいもの。展示を見学する前の一礼、静かな声での会話、写真撮影のルールなど、施設の案内に従うことが敬意につながります。
沖縄を旅する誰もが一度は触れることになる名前、「ひめゆり」。それは沖縄戦の記憶にとどまらず、命の重さと平和の尊さを静かに問い続ける島のシンボルです。


